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2011年3月11日

2016年3月12日(土)19:24きとら[Diary]

お、おひさしぶりです…前回の更新から半年ほど空いちゃいましたね(´ω`;)
ブログだけ見てる方はいないかと思いますが、とりあえず生きてますw
この半年の間に参加したふるもっふ、Kemocon、JMoFの写真も上げなきゃ。


11日は5年前と同じ金曜日。会社にいるとあの瞬間、その後の日々の記憶が甦ってちょっとつらくなりそうだったので、午後休をとって家に帰ってました。といっても当時は被災地から遠く離れた東京にいたので、特別な体験をしたわけでもないんですが…
でもこのままずっと思い出さないと、その記憶も次第にぼやけていって、いつの日か本当に忘れてしまいそうだったので、ブログに残すことにしました。他の人に読んでほしいというよりは未来の自分のための覚え書きなので、淡々と書こうと思います。

<3月11日(金)>
この日は、仕事場でふつうにデスクワークをしてました。ゆっくりとした異常な揺れが1分以上も続いて、これが関東内陸部でよく起きるいつもの地震ではないことを直感して「ついに来た…」と思ったのを覚えてます。
職場の入ってるビルは免震構造の新築だったので、停電もなく直接的な被害はほとんどありませんでした。Twitterの履歴を見返すと地震発生2分後に発言してるし、発生直前に来てた英語での質問に英語で返してるから、ある程度の余裕はあったのかな。それでもやっぱり怖かったし、乗り物酔いのような揺れがずっと続いて、みんな口々に気持ち悪いと訴えてました。
職場の同僚達はみんな仕事を中断して、情報収集をしはじめてました。別部署の女性の席で悲鳴が上がったのでデスクに駆けつけると、ディスプレイにはあの忌まわしい、仙台平野に恐ろしい速度で押し寄せ、黒く塗りつぶす、大津波の映像が映ってました。不謹慎ながらも、なんでこんな時に限って夕焼けがきれいなんだろうとか、SF映画だってこんな映像つくれないだろうなんて思ったのを覚えてます。あの映像を見るのが辛い人は今でも多いはず…。
この映像がきっかけでみんなが慌てて帰ろうとしはじめたし、会社からも帰宅勧告のメールが出たので、ボクも徒歩で帰ろうとしたものの、職場が面している国道246号(玉川通り)は、神奈川方面に向かう車や人で大渋滞。ボクが帰りたい方角とは逆なので、今飛び出ても混雑に巻き込まれて危ないと判断。しばらく執務室で待機したのち、18時半頃に退社しました。「無理な帰宅は回避すべし」という軌道修正がメールが会社からあったのは20時になってからのことでした。妊娠中の上司(女性)は帰るに帰られず、旦那さんと都内のホテルに泊まったそうです。
自宅は板橋区だったので、246号を渋谷方向に進んでから山手通りを北上するルートを選択。徒歩で帰宅なんて初めての経験だったけれど、地図は頭の中に入ってたので迷いませんでした。甲州街道、青梅街道、新目白通り、川越街道…郊外に向かうどの放射線も人だらけ。その人の流れに巻き込まれないようにしながら、ひたすら早足で北上。途中の居酒屋やラーメン店が大繁盛してました。ボクも家の近くのラーメン屋で遅い夕食をとりました。五臓六腑に染み渡るのはこういうことかとか、こんな時なのに店を開けてくれてありがたい…とか、しみじみ思ったっけ。
家に着いたのは22時前。食器や本が散乱してましたが、幸いラムネへの被害はありませんでした。ラムネは前の年の夏にデビューしたばかりで、ラムネのボディに何かあったらと、帰宅するまでは心配でたまりませんでした…。

<3月12(土)~13日(日)>
この土日は、14日に入稿する『ギガトンドラゴン』の原稿を仕上げるつもりでした。12日になってから、東北沿岸の津波の被害の状況、福島第一原発の危機的な状況が報道やツイートで耳目にガンガン飛び込んできて、果たしてこのまま原稿をしていいものか、そもそも20日のイベント自体も予定通り開催されるのか、不安がどんどん重なっていく状況を前に悩みましたが、作業を続行しました。何もせず家でテレビを見ているほうがおかしくなりそうだったので…。
実は12日時点でゲスト様2名の原稿が完了していなかったんですが、連絡をとって、作業を進めていただきました。あんな状況でお願いしてしまったこと、今でも申し訳なく思っています…。この2日間は、泣きながらひたすらPhotoshopで編集作業を進めてました。辛かった。
そういえば12日には、”Samuel Conway”という方から安否を気遣う英語のメールが来たので誰だろうと思ったら、Anthroconの代表、Uncle Kageさんその人でした。びっくりしました。お気遣いのお礼に、この年の夏にAnthroconに行って、日本酒を直接ご本人にお渡ししました。

<3月14日(月)>
この日の午前中に『ギガトンドラゴン』の原稿が仕上がり、午後に大陽出版様の渋谷店に直接入稿してきました。
11日に帰宅して以来の外出でした。埼京線も山手線も、間引き運転ながらもなんとか動いてたけれど、駅構内の照明もエスカレーターも止まってました。渋谷駅の埼京線ホームへの連絡通路にある長い動く歩道、震災前は通勤時に毎日乗ってたんですが、震災後から一切使わなくなったなぁ。
渋谷駅の外に出てみると、街頭の電飾や街頭ビジョンがことごとく消灯していて薄暗く、この世の終わりが来たのかと思うようなただならぬ雰囲気でした。そんな静まりかえったスクランブル交差点の前で、タンバリンを降りながら踊り狂う天使のコスプレをしたおっさんがいて、そっちのほうがめちゃくちゃ怖かったんですが、顔立ちからしてたぶんマックなんとかさんではと推測してます。恨むわ。
こんな状況だし閉まっててもいいやと半ば諦めていたんですが、お店には社員の方がいらっしゃって、受理していただきました。入稿後は近くのうどん店でうどんを食べたっけ。こんな状況なのに店を開けてくれてありがたい、ありがたいとただひたすら感謝しながらうどんをすすって、帰路についたのを覚えています。

<15日以降>
会社は結局、16日までお休みとなりました。休みの間はテレビやニュースサイトにかじりついていました。放射線の自身への影響はないはずと頭では思いながらも、家にあったネビル・シュートの「渚」や、風の谷のナウシカの最終巻をぱらぱらと読んだりしていました。
Twitterは、見る頻度も発言も次第に減っていきました。飛び交うデマ、やり場のない怒りと不安、仲のいい人たちがケンカをはじめたりもして…。緊急時にはその人の本性が顕れるんだなと思いつつ、そんな人たちを諫め励ますこともできず、黙っている臆病な自分が悲しかった…。
島根のじいちゃんばあちゃんから電話がかかってくると、経験したこともないのに「太平洋戦争より大したことないからw」と明るく答えてました。でも実際には、通勤するときはまるで自分が戦場に送られる兵士になったような気分でした。同じ電車の車内にいるサラリーマンはまるで戦地の同志のように思えたし、戦争が起きたらこんな感じでみんな巻き込まれつつ、覚悟と諦めを感じつつ日常を送ろうとするのかな…とぼんやり思いながら通勤してました。

新刊は20日のふぁーすとに間に合ったし、大きなトラブルもなく終えることができて本当に安堵しました。詳細については当時の記事をご参照いただければと。
『ギガトンドラゴン』の自家通販は3月下旬から開始して、200名を超える方々からご注文をいただきました。東北の方からのご注文も多く、逆に応援の言葉をいただいたりしてしまって、恐縮しつつも本当にありがたく思いました。
ある方からは発送後、地元でのボランティアで毎日大変だけれど励みになりました、といったお礼のメッセージもいただいて、その時はもう、泣いたよね…。

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